Photo_A of 吉武加寿子スタンダードバレエスクール

写真左上から

Anna Pavlovna Pavlovaアンナ・パヴロワ1881年2月12日[1] - 1931年1月26日
Vaslav Fomich Nijinsky ヴァーツラフ・ニジンスキー
Rudolf Khametovich Nureyevルドルフ・ヌレエフ1938年3月17日-1993年1月6
Natalia Romanovna Makarova, ナタリア・マカロワ1940年11月21日 -
Maya Mikhailovna Plisetskayマイヤ・プリセツカヤ1925年11月20日生

ページの先頭へ

ロシアの振付け師
fokine2a.jpg

880年、サンクトペテルブルクで生まれた。1898年にサンクトペテルブルクの帝室舞踏学校卒業と同時にマリインスキー劇場に参加。1905年以来、振付師・教師として活躍した。1905年にアンナ・パヴロワのために振り付けた「瀕死の白鳥」は特に有名である。

1909年、セルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスの結成に参加し、大成功をもたらした。この時期に、「レ・シルフィード」「ダッタン人の踊り」(1909年)「火の鳥」(1910年)「バラの精」「ペトルーシュカ」(1911年)といった傑作を生み出している。1912年に脱退後、アメリカに渡ってニューヨークに定住。1932年にアメリカに帰化し、教師として後進の教育に関わりながら振り付けもした。

生涯で70を超える作品の振り付けを行った。今なお世界のトップクラスのバレエ団で用いられているものも多い。

marius_ivanovich_petipa_-feb_14_1898.jpg

マルセイユに生まれる。
父はバレエ振付師ジャン=アントワーヌ・プティパ、母は女優、ヴィクトリンヌ・モーレル。兄はバレエダンサー・振付師のリュシアン・プティパ。
生まれたときにはMichel-Victor-Marius-Alphonseと名付けられた。1831年にブリュッセルのモネ劇場で初めて舞台に立つ。
その後ベルギー革命を逃れて1835年ごろからはボルドーでダンサーとして活躍し、1838年ごろからはナントで活動する。
1839年の北米巡業の後、再びボルドーに戻るも、興業主の破綻により1843年より4年間、マドリッドに活動の拠点を移す。

1847年、サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場にてプリンシパル・ダンサーとして契約する。
プティパがスペインを去ったのは、スペインでの情事のためとも言われる。
その後はマリインスキー劇場でダンサー・振り付け師・台本作家として活躍を続け、1869年に同劇場のバレエ監督に就任。
1904年の退任まで「眠れる森の美女」以下の三大バレエと呼ばれるチャイコフスキー作品をはじめ、数多くの作品を発表した。
また1855年から1887年の間、付属バレエ学校の校長も勤めている。


プティパは60近くの作品を制作しており、その中には現在でも上演されている作品も多い。
中でも、チャイコフスキーの音楽による「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」、
「白鳥の湖」や、レオン・ミンクスの音楽による「ドン・キホーテ」などは、
世界中でクラシックバレエの古典レパートリーとして上演されている。

ページの先頭へ